織田信長年表 | 農藥百科
![織田信長年表](https://i.imgur.com/WMTbIbA.jpg)
天下統一へ突き進んだ「織田信長」の「年表」とまとめ。お城や史跡の記事と合わせて織田信長愛があるれる年表です。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康関係図も掲載。
![織田信長年表](https://i.imgur.com/WMTbIbA.jpg)
母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男として、2歳の時に那古野城主に。『信長公記』によると、幼少から青年時にかけて奇妙で大胆な行動が多いことから、「尾張の大うつけ」言われていたそうです。
信長の生まれた織田家はもともと尾張守護代としては、主流の家ではありませんでしたが、信秀の代から、主家の清洲織田氏(織田大和守家)や、尾張守護の斯波氏を凌ぐ勢いで台頭している時期でした。その背景には津島をはじめとする貿易による経済発展したことがあります。
また、今川氏へ人質として移動中だった徳川家康が、戸田康光の裏切りで織田氏に護送された時でもあり、2年間織田信長と徳川家康は幼少期を共に過ごすことになります。そして10年以上先、桶狭間の戦いで敵同士として戦い、後に清洲同盟を結ぶこととなります。
この時期のキーマンといえば、美濃国の斎藤道三は外せません。当時、聖徳寺において、初めて織田信長と会見した時、織田信長の才覚を見抜き、自分の娘・濃姫と結婚させます。その後、長良川の戦いで、斎藤道三と息子との親子戦が勃発すると、織田信長は義理の父・斎藤道三軍に加勢。しかし、道三が息子の斎藤義龍に敗北し戦死したことを知り、退却してしまいます。
このことがきかっけで弟の信行のほうが嫡男にふさわしいという声が上がり、柴田勝家ら家臣と対立していましたが失敗。1度目は許されましたが、2回めの暗殺を信行が企てようとしたことを、柴田勝家が織田信長に密告したことを機に、信行は暗殺されることとなり、家督争いは一旦終止符が打たれ、織田信長が尾張統一を果たしました。
その後、今川家の上洛(尾張侵略という説も)により、尾張が脅かされます。今川軍2万5000に軍勢に対し、織田家は2000の兵を引き連れ、桶狭間の戦いが起こります。港に面した大高城、鳴海城を占拠した今川軍を、奇襲攻撃で...